酒とよく合う呉の味を探求するキーパーソン
掲載日:2026年11月04日
【呉で生まれる食】自然と響きあい、呉の「美味」を未来へつなぐ手仕事
呉の「食」の美味しさの理由は、瀬戸内の穏やかな海や島々、豊かな山々、そして清らかな水という恵まれた自然環境があります。そして何より、その土地の恵みに真摯に向き合い、未来へ繋ごうとする生産者たちの手仕事と情熱が存在します。 本特集では、音戸の海で極上の牡蠣やタコを育む漁師や養殖業者、下蒲刈島で多品種の柑橘と島の未来を耕す農家、山々を守り命の恵みを「呉ジビエ」へと変えるハンター、そして呉の名水と麹で地域の食卓を支え続ける醸造元まで、呉の食を支えるプロフェッショナルたちのこだわりと物語をお届けします。
音戸の海で育つ、有限会社中野水産の牡蠣
瀬戸内海に面し、古くから牡蠣の養殖が行われてきた呉。音戸町の海で、祖父の代から牡蠣養殖を続けているのが「有限会社中野水産」です。養殖を行うのは、広島県が指定する清浄海域。現在、3代目として家業に携わる中野仁貴さんは、関東で現場監督として働いた経験の持ち主。実家の牡蠣が持つ価値をもっと伝えたいという思いから家業に戻り、養殖や販売に取り組んでいます。
「おいしさ」と「安心」から生まれたブランド牡蠣
有限会社中野水産の看板商品が「美浄生牡蠣」です。ブランド誕生の背景には、約20年前に起きたノロウイルスの流行がありました。父の代で「おいしさだけでなく、安心して食べられる牡蠣を届けたい」と高度な浄化設備を導入しました。約10年前に家業に戻った中野さんは、取引先や消費者から寄せられていた「臭みがなく、甘い」という声に着目し、その味わいを魅力として発信していきました。臭みが少なく、牡蠣本来の甘みを楽しめる「美浄生牡蠣」。牡蠣が苦手な人からも「これなら食べられる」という声が届くそうです。
おいしさを支える、独自の浄化工程
有限会社中野水産では、ろ過した海水に紫外線や塩素、オゾンを用いる独自の浄化工程を取り入れています。処理した海水を水槽へ送り、海と同じような流れをつくりながら、一晩かけて牡蠣を浄化します。
水槽内で牡蠣が呼吸し、体内の不要なものを排出する働きを活かした工程です。こうした手間を重ね、臭みを抑え、牡蠣本来の甘みを引き出しています。
海の変化と、牡蠣養殖のこれから
一方で、牡蠣養殖を取り巻く環境は変化しています。昨シーズンは、呉市をはじめ広島県内各地で牡蠣が大量に死ぬ被害が発生しました。有限会社中野水産でも、売上は前年に比べて大幅に減少したといいます。 その背景について、生産者の間では、海がきれいになった一方で牡蠣の餌となるプランクトンが不足する「貧栄養化」や、高水温・高塩分濃度・貧酸素など様々なことが影響したのではないかと考えられています。現在は、県や市の補助金を活用し、牡蠣殻を海底に散布するなど、海の環境改善に向けた取り組みも進められています。
「このままでは、次の世代に牡蠣養殖の仕事を勧められない。海の環境改善も積極的に行っていき、次世代につなげていけるようにしたい」と話す中野さん。
自慢の牡蠣を直接届ける
中野さんは、従来の電話やFAXでの注文に加え、ネットショップをいち早く開設。さらに飲食店に自ら足を運び、飛び込み営業で販路を開拓してきました。呉市内の取り扱い店には、自ら牡蠣を届けることもあります。
料理人と顔を合わせて話す時間は、品質改善のヒントを得る機会になったり、「おいしかった」という言葉が、日々励みになっているそうです。こうして生産者と料理人が直接つながり、呉の牡蠣がさまざまな料理となって、食べる人のもとへ届いています。
これからも、呉の海とともに
「正直であること、嘘をつかないこと」を大切にする中野さん。目指しているのは、長く商売を続け、関わる人たちが楽しく、笑顔でいられる関係を築くことです。
海の環境も、食を取り巻く状況も変わっていく。だからこそ、守るべきものは守りながら、変えるべきところは変えていく。呉の海で育つ牡蠣を、これからも食卓へ届けるために。中野さんは海と向き合いながら、できることを一つずつ積み重ねています。
呉の味をつくる。ますやみその味噌づくり
テレビCMで長年親しまれている「お母ちゃん、間違えんさんな、ますやみそよ」のフレーズで知られる「株式会社ますやみそ」。味噌の会社というイメージが強いですが、その始まりは、実は味噌ではなく麹づくりでした。現在は呉市に本社を構え、呉市焼山、東広島市に工場を展開。味噌をはじめ、甘酒やもろみみそ、鍋の素など、麹づくりの技術を生かしたさまざまな商品をつくっています。
戦前、「舛本商店」として麹を製造・販売していたますやみそ。麹を購入するお客さんから「良い麹なので、味噌や甘酒もつくってほしい」と声が寄せられたことが、味噌づくりのきっかけだったといいます。戦後には味噌や甘酒の製造販売を開始。昭和41年には焼山工場が新設され、現在へとつながっています。
呉の水と、麹が育つ環境
味噌の味をつくるのは、大豆や麦、米といった原材料だけではありません。水や温度、時間など、さまざまな条件が重なり合って、ひとつの味が生まれます。焼山工場で使用しているのは「奥二河の水」。この水があることも、工場をこの地に構える決め手の一つになったといいます。
「水も生きているんです」
そう話すのは、ますやみそに37年間勤務する工場長の植木伸一さん。味噌づくりには微生物の働きが欠かせず、微生物が元気に働ける環境を整えることが大切だといいます。原料を洗い、水に浸し、蒸す。麹づくりでは、原料を水に浸す時間も細かく調整されます。わずかな違いが仕上がりを左右するからこそ、水も味噌づくりを支える大切な存在です。
原料を見極め、約40時間かけて麹を育てる
味噌づくりの中でも、特に重要なのが大豆を蒸す工程です。大豆の産地や品種に合わせて、圧力や時間を調整し、蒸し上がりを見極めます。
そして、味噌の味を支える麹づくりにも、細やかな気配りが欠かせません。麹を育てる時間は、約40時間。その間もただ機械に任せているわけではありません。何度も状態を確認し、前日とは違う表情を見せる麹の変化を目で確かめながら、成長を見守ります。香りや状態を確かめ、その時々の様子に合わせて判断することも、味噌づくりには欠かせません。
機械化されても、変わらないもの
植木さんが入社した当初は、スコップで材料を混ぜていたという味噌づくり。現在は機械化が進み、効率よく製造できるようになりました。一方で、材料に直接触れながら状態を覚えることは、以前より難しくなったといいます。だからこそ、目で見て、香りを感じ、状態を確かめる。長年培われてきた経験と「五感」が、今も製造現場では欠かせません。機械化が進んだ今だからこそ、人の感覚でしか分からない変化をどう次の世代へ伝えていくかも、大切な課題となっています。
呉の食卓から、時代に合わせた味へ
ますやみその味噌づくりは、呉の食文化とも深くつながっています。かつて地域の家庭では、味噌にいりこを混ぜ、ご飯のおかずとして食べる習慣がありました。その味をもとに、1974年(昭和49年)に商品化されたのが「いりこみそ」です。また、牡蠣の産地として知られる広島・呉の食文化から生まれたのが「かきの土手鍋みそ」。1983年(昭和58年)の発売以来、長く親しまれています。呉で親しまれてきた鳥皮の味噌煮や、広島を代表する牡蠣の土手鍋など、味噌は地域の食卓に根付いてきました。
一方で、暮らしの変化に合わせた商品づくりにも取り組んでいます。若い世代や、忙しい毎日の中で手軽に調理したい人に向けた「液みそ」、原材料にこだわって選びたい人に向けた添加物を使用していない味噌など、さまざまなニーズに応える商品を生み出しています。
納得できる味を、これからも
長く親しまれてきた味を守りながら、時代とともに新しい商品も生み出してきたますやみそ。その根底にあるのは、「いいものを、自分たちが納得できるものをつくる」という思いです。
呉の水、麹を育てる技術、そして長年積み重ねてきた経験。それらが重なり合い、ますやみその味がつくられています。製造方法が変わっても、人の目や感覚を大切にする姿勢は変わりません。呉の食卓に寄り添い、受け継いできた味を大切にしながら、その時代の暮らしに合った味を届ける。ますやみその味噌づくりは、これからも続いていきます。
料理人と漁師、二足のわらじで紡ぐ瀬戸内のタコ壺漁
幼い頃から海を愛してきた平貴史さん。普段は海鮮料理店の板前として腕を振るいながら、休日には呉の海へ出るタコ漁師でもあります。義父の船を受け継いだことをきっかけに始まった漁師への道。タコ壺漁にかけるこだわりや、瀬戸内海の豊かな食文化を未来へつなぐ想いとは。
普段は料理人、休日はタコ漁師
広島県の海でタコ壺漁を営む平貴史さんは、取材時46歳。10代で料理の世界に入り、呉市で板前として腕を磨いて20年近くになります。一方、タコ漁師としての歩みは3年目。昔から海釣りが好きだった平さんは、元漁師の義父が船を手放すと聞き、「自分でも漁がしたい」と一念発起。船舶免許を取得し、漁師としての第一歩を踏み出しました。
仕掛けた壺に感じた手応え
漁を始めた当初は、義父とともに「虫掘り(釣り餌獲り)」などに挑戦するも、採算面での苦労が続いたといいます。転機となったのは、先輩漁師から譲り受けたタコ壺の仕掛けでした。初回から面白いようにタコが獲れ、「これしかない!」と手応えを得た平さんは、一気にタコ壺漁の魅力に引き込まれていきました。タコ壺漁は海底に沈めた壺に入ったタコを壺ごと引き上げる漁法ですが、風で船体が煽られロープがプロペラに絡みそうになるなど危険も伴います。万が一巻き込めば航行不能にもなりかねないため、常に気の抜けない作業が続きます。
おいしいタコを届けるためのこだわり
おいしいタコを届けるために平さんが何より大切にしているのは、タコにストレスをかけないことです。タコ壺は毎回きれいに清掃し、引き上げた際も無理に引っ張り出さず、自然に出てくるのを静かに待ちます。最盛期を迎える夏から秋にかけて、海には60個のタコ壺を仕掛けており、多い日には10杯以上を揚げます。取材日の戦果は4杯でしたが、一杯一杯を丁寧に扱います。
豊かな海の恵みと呉の食文化
地元で獲れた新鮮なタコは、天ぷらや酢の物、タコ飯として味わうのが昔からの定番です。潮の流れが非常に速い音戸の海では、タコが流されないよう岩場へ力強く足を張り付けるため、筋肉が発達して身がしっかりと引き締まります。さらに生きたタコだからこそ味わえるのが「分銭(ぶんせん)作り」という刺身です。小銭のような丸い形に包丁を入れるのが特徴で、とろけるような柔らかさと、噛むと弾けるようなコリコリとした歯触りを兼ね備えた格別の美味しさです。
瀬戸内の食と資源を、未来につなぐ
長年海に親しんしてきた平さんは、「20年前にはたくさん釣れていた太刀魚やメバルが、今は全く獲れなくなった」と海の変化を肌で感じています。だからこそ、資源を守る意識を強く抱いています。「700グラム以下の小さなタコは必ず海に放流します。目先の利益を追って獲りすぎれば、やがてタコはいなくなってしまう。小さな命を海に還し、大きくなって卵を産んでもらう。その積み重ねが生態系を守り、ゆくゆくは未来の食文化を守ることにつながると信じています」。
料理人として、そして漁師として。平さんは海の恵みを食卓へ届けながら、その豊かな海を未来へつなぐ挑戦を続けています。
※タコ壺の中で黄色く見える卵を抱く母ダコを見つけた際も、弱っている様子を察した平さんは、壺ごとすぐに海へと戻しました。
有害鳥獣を恵みの食へ。呉の山々を守り、挑むベテランハンターの情熱
呉市では令和3年度から、農作物を荒らす「有害鳥獣」として捕獲された野生動物の食肉を「呉ジビエ」※というブランドで販売する取り組みが行われています。中でも代表的な呉ジビエの一つであるイノシシ肉は、ジューシーな味わいとまろやかな旨味が評判を集め、呉市の「ふるさと納税」の返礼品としても高い人気を誇ります。今回は呉市川尻地区において、イノシシの捕獲・解体・加工・販売までを一貫して手がける呉地区猟友会会長の岡田芳幸さんと、呉市川尻地区地域おこし協力隊員の皆川篤志さんに、その熱いこだわりと将来の展望をお聞きしました。
※ジビエ:フランス語で野生動物の食肉を意味する言葉。
地域を悩ませる鳥獣被害と「呉ジビエ」の誕生
現在、日本各地でイノシシやシカなどの野生動物が農作物に被害をもたらし、社会問題となっています。呉市においてもその問題は深刻で、有害鳥獣による農業被害額は年間約2,172万円、被害量は約73トンにも及びます※。この課題に立ち向かうのが、30年以上にわたりイノシシやシカなどの駆除にあたってきたベテランハンターであり、呉地区猟友会の会長を務める岡田芳幸さんです。地元の農家などから被害報告が寄せられた箇所を中心に「箱わな」などを仕掛け、定期的に見回りを行っています。単なる駆除にとどまらず、捕獲したイノシシを処理センターで解体し、ジビエ(食肉)として加工して飲食店へ販売する業務も自ら担う岡田さん。農作物に被害をもたらす「有害鳥獣」を「呉ジビエ」という新たな地域の特産品に生まれ変わらせるこの取り組みは、今や呉市内各地へと広がりを見せています。
※出典:市政だより「くれ」2025年8月号/令和6年度の年間額)
「ジビエ問屋クレ839」の一貫体制と職人技
岡田さんたちは捕獲したイノシシを、川尻地区にある専用の食肉処理センター「ジビエ問屋クレ839」へと運 び、クレーンに吊るして解体・加工を行います。「適切に血抜きを行うことで、臭みのない美味しい肉になるんですよ」と岡田さんが語る通り、熟練の血抜きと解体作業が品質を支えています。部位ごとに丁寧に切り分けられた肉は、真空パックを施した後に冷凍保存されます。 イノシシ肉の中で一番人気の部位は、ボタン鍋でもおなじみの「ロース」です。「秋から冬にかけて、イノシシが寒さに備えて身体に脂肪を蓄えるシーズンは、特に美味しいですよ」と岡田さんは話します。さらに肉だけでなく、旨味の詰まった骨もラーメンの出汁用として人気を集めるなど、命の恵みを無駄なく活かしきっています。
ブランド肉「野呂くじら」と呉市内のレストラン
「ジビエ問屋クレ839」で加工された川尻地区のイノシシ肉は、「野呂くじら」というブランド名で販売されています。赤身と脂身のバランスがよく、旨味がたっぷり詰まっており、クセや臭みがないのが大きな特徴です。現在では呉市内のレストランを中心に、和風・洋風を問わずさまざまなメニューで提供されています。 野呂山の山頂近くに位置する国民宿舎「野呂山高原ロッジ」のレストランでも、「野呂くじら」を使った料理を楽しむことができます。特に人気なのは「イノシシ丼」と「イノシシハンバーグ定食」で、やわらかくジューシーな、ジビエならではの旨味を心ゆくまで堪能できます。
美味しさを伝え、未来の担い手を育てる
「“ジビエ”という呼び名は広まってきましたが、実際にイノシシ肉を食べたことがある人はまだまだ少ないです。とにかく一度食べてみて、美味しさを知ってほしいです」と岡田さんは呼びかけます。その想いと技術を受け継ぐべく、地域おこし協力隊の皆川篤志さんも「これから岡田さんにジビエの加工技術を習って、おいしい『野呂くじら』を多くの人に届けたいです」と意気込みを語ります。 今後は、有害鳥獣を捕獲・加工する担い手を地域で育てながら、「呉ジビエ」を安定して供給できる体制づくりを目指していく構想です。呉の山々と農家を守り、命の恵みを食卓へ届ける挑戦はこれからも続いていきます。
元教師が描く、柑橘農業の未来。ヤギと多品種レモンで下蒲刈島を元気に!
「人が好き、自然が好き、故郷が好き」というまっすぐな想いを胸に抱く菅原常司さん。呉市で唯一、レモンの収穫体験が楽しめる「菅原レモン園」の園主であり、18品種もの香酸柑橘をはじめ、多種多様な柑橘を育てる農家でもあります。不登校の児童と向き合った経験をきっかけに始まった、故郷再生への道。ヤギと共に取り組む柑橘栽培へのこだわりや、島の未来を次世代へつなぐ想いをお聞きしました。
教職から故郷の農家へ
とびしま海道の玄関口に位置する下蒲刈島。みかん農家に生まれた菅原さんは、かつて小学校教師として教壇に立っていました。転機となったのは、在職中に不登校の児童を担当したときのことです。ヤギと一緒に登校することで「笑顔いっぱいの学校にしたい」と「ヤギプロジェクト」を立ち上げ、動物や自然が持つ癒やしの力を実感したといいます。2014年、菅原さんは早期退職を決意。故郷の下蒲刈島へUターンし、農家としての新たな一歩を踏み出しました。
荒れた畑の再生と観光農園への挑戦
故郷で菅原さんを待っていたのは、手入れが行き届かず荒れてしまった実家の畑でした。「昔から親父が大切にしてきた畑を見ていたので、黙って荒れていくのを放っておけなかった」。そう振り返る菅原さんは、ミニヤギに雑草を食べてもらう除草方法を取り入れ、5年の歳月をかけて畑をふたたびよみがえらせていきました。さらに単に作物を育てるだけでなく、「人が集まる場所」を目指して観光農園としての道も模索し、2013年にオープンを果たします。「きれいな景色だけでは人は来ない。おいしいものを食べたり、ここでしかできない体験ができたりすることが大切」。そんな考えのもと、現在ではレモンやみかんなど年間100種類以上の柑橘を栽培。9月頃の極早生みかんをはじめ、季節ごとに表情を変える体験型農園として親しまれています。
高品質を届けるこだわりと発見の喜び
菅原レモン園が何よりも大切にしているのは、その場で収穫し、そのまま味わいたくなるほどの品質を届けることです。子どもでも食べやすい甘みを持つ「レモネードレモン」をはじめ、熟すと赤みを帯びる「紅レモン」、華やかな香りが広がる「パキスタンレモン」、ひときわ大きな「ジャンボレモン」など、個性豊かな品種が並びます。訪れるたびに新しい色や形の果実に出会えるワクワク感も、この農園ならではの大きな魅力です。
下蒲刈島の風土とプロに選ばれる品質
100年以上前から柑橘栽培が盛んな、下蒲刈島を含むとびしまエリア。温暖な気候と豊かな自然環境のもと、菅原さんが手塩にかけて育てるレモンは、プロの料理人からも高く評価されています。呉市の居酒屋「利根本店」では収穫したレモンを使ったメニューが考案されているほか、神奈川県のフルーツパフェ専門店からも毎月注文が入るなど、その評判は島の外へと広がっています。
命と土地を未来へつなぐ挑戦
「結局、一番大事なのは『人』なんですよ」と菅原さんは語ります。魅力ある人がいるからこそ周囲に人が集まり、そのつながりが移住や観光へと広がっていく。2023年からは「竹と農の学校」で講師を務め、教え子たちと共に荒れた農地を開墾しながらレモンの苗木を育てています。「自分一人でやるのではなく、みんなで一緒にやるからこそ達成感が生まれる。それが、この島で柑橘を育てたいという次の世代につながっていく」。農業に興味を持ちながらも一歩を踏み出せずにいる若者たちの背中を押すため、菅原さんは今日も畑で汗を流します。教師として、そして農家として。ヤギや若者たちと共に柑橘を育てながら、豊かな土地と故郷の未来を次の世代へつなぐ挑戦は、下蒲刈島でこれからも続いていきます。