呉市日本遺産 鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴~日本近代化の躍動を体感できるまち~
掲載日:2024年03月18日
明治期の日本は、近代国家として西欧列強に渡り合うための海防力を備える必要があったため、国家プロジェクトにより天然の良港4か所に軍港を築き、鎮守府を置きました。
静かな農漁村に人と先端技術が集まり、海軍諸機関と共に水道,鉄道などのインフラが急速に整備され、軍港都市が誕生し、近代技術が育まれました。
日本の近代化を推し進めた四市には、海軍由来の食文化もまちに浸透し、多種多様な数多くの近代遺産とともに、躍動した往時の姿を体感できます。
※日本遺産とは
地域の歴史的魅力や特色を通じて,我が国の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産(Japan Heritage)」として文化庁が認定するものです。
ストーリーを語る上で欠かせない魅力溢れる有形・無形の様々な文化財群を,地域が主体となって総合的に整備・活用し,国内だけでなく海外へも戦略的に発信していくことにより,地域の活性化を図ることを目的としています。
旧呉鎮守府司令長官官舎(入船山記念館)
明治19(1886)年、呉鎮守府の設置が決まり、入船山に瀟洒な総2階建ての洋館が建てられましたが、明治38(1905)年の芸予地震で倒壊したため、同年、現在の和洋折衷様式の平屋へと再建されました。平成4年(1992)から3年かけて解体と復元修理が施され、洋館の内壁には建築当時の絢爛豪華な金唐紙の美しさが蘇りました。
旧呉海軍工廠塔時計(入船山記念館)
大正10(1921)年に旧呉海軍工廠造機部の屋上に設置され、終戦まで工廠と共に時を刻んできた高さ約10mの塔時計は、電動親子式衝動時計として国産で最古のものと言われる貴重な存在です。
旧東郷家住宅離れ(入船山記念館)
呉鎮守府参謀長として呉に在任していた東郷平八郎が、明治23 (1890)年5月から1年8カ月の間住んでいた邸宅離れを入船山公園内に移築したものです。部屋の中や広縁を吹き抜ける風は、東郷平八郎が過ごした束の間の癒やしの時を感じさせてくれます。
呉軍港全図(入船山記念館所蔵)
呉鎮守府建設計画は、呉における調査資料をもとに明治19(1886)年頃に東京で作成したと推定されています。この図は、海軍による計画的な軍港都市形成の意図を裏付ける貴重な資料です。
旧高烏砲台火薬庫(入船山記念館)
明治35(1902)年、陸軍が建設した高烏砲台跡から移築復元しました。総石造りの火薬庫は全国的にも珍しく、その重厚感ある造りは、当時の技術力の高さを今に伝えています。
海上自衛隊呉地方総監部第一庁舎(旧呉鎮守府庁舎)、地区内のれんが建物群及び呉鎮守府地下施設群
威風堂々とした造形の美しさを誇る旧呉鎮守府庁舎は、明治40(1907)年に竣工しました。中央部にドームを配し、れんがと御影石を組み合わせた近代洋風建築に当時の技術力の高さがうかがえます。また、様々な地下施設が残り、呉に鎮守府が置かれていた歴史を物語ります。
鎮守府のまち呉を偲ぶ代表的な建造物であるとともに、現在、呉地方総監部第一庁舎として大切に活用されています。
※第1・第3日曜日のみ見学ができます。要事前予約。詳細は、海上自衛隊呉地方総監部広報推進室(Tel:0823-22-5511 内線2702・2259)まで。
歴史の見える丘
昭和57(1982)年に整備された公園内には、旧呉海軍工廠ドックの壁石を使ってドックの底に下りる階段を再現した「造船船渠記念碑」、旧呉海軍工廠の礎石や銘板を組み合わせて作られた「呉海軍工廠記念塔」、戦艦「大和」の艦橋を模した「噫戦艦大和塔」などの記念塔や大和の主砲徹甲弾が展示されています。ここに立つと、軍港から平和産業港湾都市としての道を歩んできた明治以降の呉の歴史を肌で感じることができます。
ジャパン マリンユナイテッド(株)呉事業所(旧呉海軍工廠造船部造船船渠)大屋根及び地区内関連施設群
宮原5丁目にある歴史の見える丘からは、戦艦「大和」を建造したジャパン マリンユナイテッド(株)呉事業所(旧呉海軍工廠造船部造船船渠)大屋根及び地区内関連施設群の大屋根が間近に見えます。また、呉の街なみや多くの船が行き交う呉湾の様子を一望することができ、夕暮れ時には、対岸の江田島の山陰に沈む夕日が、立ち並ぶ造船所のクレーンを美しく照らし、心に染み入る景観を見せてくれます。
※民間施設のため内部は見学できませんが、歴史の見える丘から外観を展望できます。
アレイからすこじま
旧呉海軍工廠本部前護岸
明治28(1895)年に築かれた約300mにも及ぶ花崗岩の切石積護岸が、当時のままの状態で残されています。波の浸食に耐えられるよう巧みに加工された石階段や、切石に繋ぎ止め金具が打たれた平らな桟橋など、護岸が伝える当時の高い土木技術も一見の価値があります。
魚雷積載用クレーン
魚雷の積み下ろしのために明治34(1901)年に設置された英国製の15トンクレーンが護岸の南端に残されています。周辺は潜水艦が間近に見える公園としても整備されており、迫力ある景観を眺めながら歴史を振り返ることができます。
昭和町れんが倉庫群
かつて呉海軍造兵廠があったこの一帯は、最高機密エリアでした。明治30年代に建設された「れんが倉庫」は、製品置場や大砲庫などに使われていましたが、空襲により一部の建物が損壊しました。戦後、国から購入した民間企業が修理し、現在も倉庫として活用しながら、当時の趣を漂わせています。
※外観のみ見学可能です。
旧呉海軍工廠海軍技手養成所跡と周辺の海軍遺構
かつてこの場所には、「ものづくりのまち呉」の礎とも言える「技手」と呼ばれる優秀な技術者を養成した施設がありました。現在は、その歴史を伝える記念碑が建てられている他、周辺には防空監視所跡やトーチカ(コンクリート製の防御陣地)など、貴重な遺構が残されています。
呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)の所蔵資料
明治以降、日本産業技術の先端を走り続けた呉市の歴史や、その礎となった造船・航空機などの科学技術を当時の生活・文化に触れながら紹介する博物館です。呉海軍工廠で建造された戦艦「大和」の10分の1模型を始め、零式艦上戦闘機や人間魚雷「回天」などの大型資料も展示しています。
長迫公園(旧海軍墓地)
呉の街なみを見渡すことができる長迫町の高台にある旧海軍墓地は、海軍軍人戦没者、殉職者などの埋葬地として明治23(1890)年に開設され、昭和61(1986)年の国からの譲渡後、公園として整備されました。園内には、戦前に建立された墓碑や戦艦大和戦死者之碑など、多数の合祀碑があります。
宮原浄水場低区配水池
明治23(1890)年に築造されたこの配水池は、上屋側壁部分が赤レンガ造で、日本の近代水道初期の様子を知る上で貴重な施設として、国登録有形文化財に指定されています。
※国登録有形文化財
※浄水場内にあるため一般開放していませんが、浄水場外から展望できます。
二河水源地取入口
明治22(1889)年の呉鎮守府の開庁に合わせて竣工したこの取入口は、近代水道としては、横浜、函館に次ぐ歴史を誇ります。御影石造の堂々とした姿が醸し出す品格は、120年以上経った今でも褪せることがなく、当時の石工の技術の高さがうかがわれます。
本庄水源地堰堤水道施設
呉鎮守府水道の貯水池として大正7(1918)年に完成したこの堰堤は、長さ97m、高さ25m、総貯水量196万立方メートルの重力式コンクリート造で、完成当時は東洋一の規模を誇りました。堰堤をはじめ、丸井戸、階段、第一量水井の4施設は、平成11(1999)年に現役の水道施設として全国で初めて国重要文化財に指定されました。
※現在も稼働中の水道施設のため普段は見学できませんが、桜の開花時期には一般開放されます。
高烏砲台跡
明治34(1901)年旧陸軍が外国艦船の侵入を防ぐために、標高218mの高烏台に28センチ榴弾砲6門を装備した砲台を築きました。その砲台基礎や弾薬庫の一部と兵舎跡などが、100年以上経った今でも立派な外観を保って残されています。
大空山砲台跡
明治36(1903)年に竣工した大空山砲台は、上陸して背後から攻めてくる敵軍から呉を護るために建設されました。また、第二次世界大戦当時は、高射砲基地となっていました。砲座跡、弾薬庫跡などが残されており、近代土木建築の技や設計力、デザイン力の高さが感じられます。
海上保安大学校煉瓦ホール(旧呉海軍工廠砲熕部 火工場機械室)
大正3年(1914)に建造されたれんが建物。建物の主要構造部、外観部分など建設当時の意匠をよく残し、「海軍第一の製造所」として発展・躍動した呉の歴史を伝える建造物です。
※普段は、建物内の見学はできません。
ラッパ君が代
朝夕に、艦船上での国旗や自衛艦旗の掲揚と降納に合わせて港に響き渡るラッパ「君が代」。
夕日が海をオレンジ色に染める時間、潜水艦を間近に見ることができる「アレイからすこじま」に響き渡るラッパの音色は、往時の雰囲気を追体験できます。
亀ヶ首発射場跡
呉市南部の倉橋島東端に位置し、戦艦「大和」の大砲の試験も行った発射試験場の跡。海軍の要塞地帯として建設された測定所、検測所、桟橋などの遺構が残されています。
明治33(1900)年、海軍は、倉橋島に大砲の発射試験場(亀ヶ首発射場)を整備しました。亀ヶ首発射場は、大口径砲を中心とする兵器の国内製造の実現に重要な役割を果たしており、大和型戦艦に搭載された46センチ砲の試験も同所で行われています。
お問い合わせ先
呉市観光案内所:0823-23-7845